花魁はいろいろな映画や漫画などで取り扱われており、魅力的な存在として描かれています。
江戸時代の吉原において花魁は遊女においてトップの存在で、一部の人しか相手にしていませんでした。
多くの人を魅了した花魁ですが、そこまで上り詰めるまでは厳しい道のりがあります。
花魁道中は美しく着飾った花魁が馴染み客を迎えに行くことで、トップクラスの遊女と下の階級である格子が参加しています。
揚屋は江戸時代において客が置屋から花魁といった遊女を呼んで遊んだ場所で、お茶屋よりも格上です。
常連客は遊郭に来ると揚屋に上がって、お気に入りの花魁を指名することが可能です。
花魁が来るまではお酒を飲みながら、芸者や太鼓持ちなどの芸を楽しむことができます。
花魁は飾り立てて揚屋までやって来て、客を連れて妓楼に戻るのです。
このシーンを旅に見立てたことから道中と呼ばれるようになります。
花魁道中の場合、幼い見習いの禿や遊女の妹分の新造、雑務をこなす従業員の下男が彼女の脇を固めながら歩きました。
馴染み客を迎えに行くのにもしきたりがあり、これは彼女にとって威厳を保持するのに必要なものだったのでしょう。
花魁と馴染みの仲でいるにはかなりの金額が必要で、揚代や他のスタッフに対する祝儀や酒代も必要です。
一晩において40両かかるケースもあり、1両は今の約7万5千~13万円ぐらいの価値があると言われています。
客は大金を支払うことによって自分の力を誇示することができ、自身も周囲にアピールしていました。
花魁になるにはいろいろなステップが必要で、禿から振袖新造になるのが多いです。
禿から振袖新造になり、振袖新造から花魁になる道のりが一般的でした。
禿は少女で花魁の身の回りの雑用を行い、遊郭のルールを学んでいきます。
15~16歳になると禿は遊女見習いの振袖新造になり、彼女の代理として呼ばれてたとしても基本的に床入りは基本的にありません。
17歳で遊女になると花魁へとランクが上がり、花魁の中にも呼出しや昼三、付廻しなどのランクがありました。
花魁になるにはいろいろな教養が必要で、美貌はもちろん教養も必要でした。
読み書きや書道などは手紙を書くのに必要で、遊女はいつも手紙を書くと言われていました。
字もきれいで、幼少期から琴や三味線、歌や茶道などいろいろな芸事を叩きこまれてきており、古典や囲碁など知性が感じられるような教養も兼ね備えています。
多彩であるといろいろな客とも会話することができるので、必要なスキルでした。
花魁に夢中になる人は美しさはもちろん、会話などの知的な部分に惚れていた人も多いでしょう。
遊女にはいろいろなしきたりがあり、遊郭ではたくさんの人が働いていたので独自のルールがありました。
例えば花魁道中の際に彼女が見せる歩き方に、八文字があります。
黒塗りの三枚歯でできた高下駄を履いて、特徴的な足運びをするものです。
きちんとマスターするまで3年かかると言われており、映画でもよく描かれている歩き方になります。
もともと京都の道中で使われた内八文字が始まりと言われており、内側から足を踏み出すので動きが小さく見えたり、おしとやかな印象を発揮することができました。
時代が移り変わると内八文字から、より派手さが感じられる外八文字に変化していきます。
外八文字は当時有名だった遊女の勝山が作りだしたものと言われており、外側に対して大きく足を踏み出して八の字に置くスタイルです。
遊女は歩き方についても、いろいろなルールがありました。
彼女は遊女たちのいろいろな面倒を見ていたとされています。
上客をつなぎ留めたり、大金を稼ぐので裕福のようなイメージがありますが、実際そうは言えなかったようです。
たくさんの禿や新造などを従えているので、座敷を維持するため多額の費用が必要です。
収入も支出も多い状態と言えるので、他の遊女の費用なども負担しているとかなりの稼ぎが必要になってくるでしょう。
遊女にとって若さが武器になるので、20代を過ぎると当時では需要がなくなりました。
レベルの高い花魁になると客に身請けされたり、遊郭を卒業するケースも多いです。
莫大な金額が必要になってくるので、多くの場合大名や豪商の後妻や妾などになるケースがありました。
花魁にとってはこれが幸せなゴールになっており、身請けされることによってみんなの面倒を見た苦労が報われるようになります。
一握りの遊女にだけ許された花魁道中ですが、それは艶やかに着飾ってたくさんの人を魅了した花魁の特権でした。
花魁として活躍した人は身請けされることが多いですが、必ずしも幸せをつかめたかどうかは分かりません。
美しさには儚さも含まれており、遊郭では梅毒などの病気にかかる遊女もありました。
江戸時代の吉原は艶やかな世界として描かれており、日本文化として現代に語り継がれていますが、その裏には遊女のいろいろな苦労もありました。